「魂もしもしセッション」を受けたのは、ある言葉に引っかかったのがきっかけだった。
魂の本当に好きなものはひとつ。
でも、今の人たちはその “好き” のまわりにある『好き風味』『好きかも?』のものたちを、本当の好きだと信じている──
この投稿を見たとき「わたしが “好き” だと思ってやってたこと、もしかして違うのかも?」と思って。
一度、自分の “本当の好き” を確かめてみたくなったのが、セッションを受けた理由。
セッションでは、ざっくりと魂の好きとの一致具合も見てもらえて。
どうやらわたしは比較的、魂の望む通りに生きているらしい。
そんなわたしの魂の “好き” は、言葉にするなら「生命」「生きとし生けるもの」。
人に限らず、草木も、動物も、すべての “生きているもの” たち。
そう聞いたとき、なぜだかわからないけれど、妙にしっくりくるというか、腑に落ちるというか、そんな感覚があった。
特段、自然の中にいると元気になるとか、触れていないと息ができないとか、そういった感覚はないけれど、謎の「あ、やっぱりね」みたいなものはある。
それから、「自分の世界」や「距離感」を大事にしてきたことも、魂の望みと重なっているらしくて、思わず笑ってしまった。
たくさんの人とは関わらなくていい。
必要なものだけでいい。
絶対的な自由が必要で、いろんな意味で疲れやすい。
家族も含めて、人との縁は薄め。濃い関係にはちょっと息がつまってしまう。
結婚も、できたとしても通い婚か週末婚かな…なんて、冗談まじりに話していたこともあったけれど、それすらも「仕様の範囲内」だとは。
さらに驚いたのは、そんなわたしの魂は「人」じゃなくて「木」だという話。
動物でもなく、植物。
木霊とか、木の精霊とか、そういう存在(ジブリ映画を思い出したよね)
北の方の森で、動物と一緒に暮らして、星を見たり、神話を語ったり…そんな過去もあったかもしれないと言われて、不思議とその光景が思い浮かんで納得。
もちろん、こういう話は好みが分かれるもの。
好きな人には届くし、胡散臭いって思う人にはそもそも届かないだろうな、って思っている。
じゃあ、わたしは…というと、この手の話は好きな方だし、そんな世界線もあるのか(興味深いな)と受け止めちゃう。
だからこうして、自分の記録もかねて記事にしていたりするのだけど。
そして、印象的だったのは、魂の好きは “仕事にしない方がいい” こともある、ということ。
喜ばれるから、で始めたことは、いずれしんどくなる。
誰かの期待に引っ張られすぎると、自分の “本当の好き” が見えなくなる。
だから、
「好きを仕事にしなくてもいい」
「好きを生きるためのエンジンにすればいい」
そう言ってもらえたことで、ここ何年もの風潮でもある「好きを仕事に」に縛られなくてもいいんだな、と思えた。
(しんどいと思うことを仕事にするよりはいいかな、と思うけれど、仕事にしたが故に好きなことが好きでなくなってしまう、なんて話も聞くし。それは、それで悲しいから)
魂と人生が一致していない人も多い中で、わたしは比較的、一致しているらしく、そこにちょっと安心しつつも、それはそれで「生きにくいな」と思う部分があるのも事実。
でも、それもわたしの “今世の仕様” なんだと思う。
そう思えば、変えよう無理をするよりも、ただ、自分に合ったほうへ歩いていければいい。
そんな風に思える。